グスタフ・マーラー(Gustav Mahler/1860年~1911年)の「交響曲第1番(巨人)」は、1884年から1888年にかけて作曲されました。

交響曲と歌曲の大家として知られるマーラーの中では、交響曲第5番と並んで人気の高い作品の一つです。
声楽を必要とせず音楽的にも親しみやすいことから、コンサートでも度々取り上げられます。

ここではマーラー「交響曲第1番(巨人)」の解説と名盤を紹介したいと思います。

マーラー「交響曲第1番(巨人)」の演奏

演奏:hr交響楽団(hr-Sinfonieorchester)<国際公式名:フランクフルト放送交響楽団(Frankfurt Radio Symphony)>
指揮:アンドレス・オロスコ=エストラーダ(Andrés Orozco-Estrada/1977年12月14日-)コロンビアの指揮者

[00:17]第1楽章:Langsam, Schleppend, wie ein Naturlaut - Im Anfang sehr gemächlich
[17:20]第2楽章:Kräftig bewegt, doch nicht zu schnell
[25:23]第3楽章:Feierlich und gemessen, ohne zu schleppen
[36:35]第4楽章:Stürmisch bewegt

若かりしマーラーが職を転々としていた頃の作品

この頃マーラーの指揮者としての実力は徐々に認められはじめていました。
しかし「強気な性格とユダヤ人である」という理由から、マーラーは職を転々としています。

オルミュッツの市立劇場指揮者であったマーラーでしたが、1883年、23歳の頃にカッセル王立劇場の楽長となりました。
その翌年に取り組み始めたのが、この彼にとって初めての交響曲、第1番です。
続いてマーラーは1885年の25歳の頃にプラハのドイツ劇場の楽長になり、さらに1886年にはライプツィヒ歌劇場の楽長となりました。

mahler

この頃は若きマーラーの傑作がいくつも生まれており、「さすらう若者の歌」(1885年)「子供の不思議な角笛」(1886年)もこの頃の作品です。

初稿完成後、劇場をクビに

初稿はライプツィヒ歌劇場に務めていた1888年に完成しました。
しかし劇場と対立してしまい、作品完成の2カ月後にクビになってしまいます。
それは、作曲のために劇場の仕事を疎かにしてしまったことも原因だと言われています。

ブダペストで自らの指揮で初演

クビになっても才能のあるマーラーにはすぐに次の職があります。
同年にブダペスト王立歌劇場の芸術監督に就任したマーラーは、ここで自ら指揮をし初演しました。

この頃のマーラーは指揮の評価もうなぎ上りでした。
「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ドン・ジョヴァンニ」などを指揮し、中でも「ドン・ジョヴァンニ」はブラームスを感激させました。
ブラームスはその演奏を「理想的なドン・ジョヴァンニ」だと評価したそうです。

当初は副題「巨人」は付いていない

実は初演時は副題は付いておらず、「2部からなる交響詩」として発表されました。

その後1891年、31歳の頃にマーラーはハンブルク歌劇場の第一楽長となります。
そのハンブルクでの改訂稿(1893年)で初めて副題が付き「交響曲形式による音詩《巨人》」としてマーラー自身の指揮で初演されました。

マーラーの愛読書からとった「巨人」

「巨人」の名は、ドイツの小説家ジャン・パウルの小説から来ています。
マーラーはこの小説を若い頃から読んでおり、彼の愛読書だったそうです。
この小節は主人公アルバーノが恋愛や人生経験を通して成長していく過程を描いています。

そのことからわかるように「交響曲第1番」は決して巨人を描いているわけではありません。
むしろ青年の感情や決意を描いていると言えるでしょう。

マーラー自身の恋愛も反映されている!?

この頃マーラーは、劇場のソプラノ歌手ヨハンナ・リヒターに恋をし、失恋をしています。
そしてこの失恋をもとに「さすらう若人の歌」(1885年)は作曲されました。

「交響曲第1番」もこの失恋の経験が少なからず反映されていると言われています。
マーラーの弟子のブルーノ・ワルターはこの作品を「マーラーのウェルテル」だと語りました。
ゲーテの傑作「若きウェルテルの悩み」は、恋愛に苦悩したウェルテルが自らの命を絶ってしまう悲痛な物語です。
そう考えると「巨人」という副題は、この作品の性格をイメージしにくいのかもしれません。
「巨人」の小説の内容が「交響曲第1番」と近いというわけです。

また当初全曲には以下のような題が付けられていました。

第1部 青春の日々から、若さ、結実、苦悩のことなど

第1楽章 春、そして終わりなし
第2楽章 花の章
第3楽章 順風に帆を上げて

第2部 人間喜劇

第4楽章 難破、カロ風の葬送行進曲
第5楽章 地獄から天国へ

多くの芸術家から題を引用する

これらの題は多くの芸術家の言葉からきています。

第1部の「青春の日々から、若さ、結実、苦悩のことなど」はドイツの小説家ジャン・パウルの小説によるものです。

第2楽章の「花の章」は、ドイツの詩人のヨーゼフ・ヴィクトル・フォン・シェッフェルの「ゼッキンゲンのラッパ手」のために書かれた付随音楽が原型とされています。
これはマーラーによって1884年にカッセル歌劇場で朗読上演されたものでした。

また第4楽章はフランスの版画家ジャック・カロの風刺画に関係していると言われています。

その後も大幅な改訂が

その後も大幅な改訂が加えられました。

副題の「巨人」を含めた全ての部・章の題は削除され、第2楽章「花の章」がなくなり、4楽章の「交響曲」として初演されました。
この4楽章のものが現在の私たちが耳にするマーラーの「交響曲第1番」になります。

マーラー「交響曲第1番(巨人)」の名盤

小澤征爾&ボストン交響楽団

こちらは第2楽章「花の章」も入っている録音です。
日本が誇る世界のオザワこと小澤征爾の指揮によるボストン交響楽団の演奏です。
1977年録音で小澤征爾がボストン交響楽団常任指揮者に就任してまだ数年しか経っていいない頃のものです。
若々しく力強いマエストロのマーラーは必聴です。

録音:1977年3月、4月(花の章のみ1984年)

小澤 征爾(おざわ せいじ/1935年9月1日-)
日本の指揮者
1964年:トロント交響楽団の指揮者に就任
1966年:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を初指揮
1970年:タングルウッド音楽祭の音楽監督に就任、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任
1973年:ボストン交響楽団の音楽監督に就任(2002年まで)
2002年:日本人指揮者として初めてウィーン・フィルニューイヤーコンサートを指揮、ウィーン国立歌劇場音楽監督に就任

ボストン交響楽団(The Boston Symphony Orchestra)
アメリカ、ボストンのオーケストラで、「アメリカ5大オーケストラ(Big Five)」の1つとされる。
小澤征爾は1973年から2002年まで音楽監督を務め、歴代のボストン響の指揮者の中で最も任期の長い指揮者となった。

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