協奏曲
管弦楽のソナタから発生して、17世紀末には協奏曲も誕生しました。
初めての協奏曲は、コレッリが1680年頃に書いた12曲の合奏協奏曲だと言われています。
初期の協奏曲は、合奏での強弱の変化や、トリオソナタ、ヴァイオリンの演奏技術の向上が絡み合って生まれました。
弱いところではトリオソナタの形ですが、強くなると人数を増やした合奏で演奏されました。
そして、独奏を任された独創楽器の数や種類も時代が進むに連れて多様化していきました。
教会ソナタから発生した協奏曲を教会協奏曲、室内ソナタから発生した協奏曲を室内協奏曲と呼びました。
実際に、教会協奏曲は教会でも演奏されました。
コレッリの頃は楽章数は決まっていませんでしたが、アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ(Antonio Lucio Vivaldi,1678年-1741年)の作品で3楽章制に決まりました。
ヴィヴァルディの協奏曲
ヴィヴァルディの合奏協奏曲は、急ー緩ー急の3楽章からなりました。
独奏協奏曲も同様にこの形がとられるようになりました。
第1楽章は、合奏で始まり独奏へ変わることを何度か繰り返し、その間に主題を変化させていきました。
第2楽章は独奏が目立つように作られました。
第3楽章は、第1楽章に近い構成で、それよりさらに軽快な音楽になっています。
これを境に、教会協奏曲と室内協奏曲の区別はなくなりました。
この形式は、バッハにも受け継がれバロック時代の協奏曲として使われるようになりました。
ヴィヴァルディは協奏曲の形式だけではなく、音楽的にも素晴らしいものを残しました。
四季のように、協奏曲で初めて標題を用いたのもヴィヴァルディです。
Antonio Vivaldi - The Four Seasons
ヴィヴァルディはバッハに影響を与えましたが、コレッリが忘れられたわけではありません。
コレッリの音楽はヘンデルにも影響を与えたと言われています。
ヴィヴァルディの人物像
ヴィヴァルディの人物像について最後に少し触れておこうと思います。
ミサをしない司祭
ヴィヴァルディは音楽家であると同時にカトリック教会の司祭でもありましたが、ミサをしない司祭として有名だったそうです。
作曲や指揮などの音楽の仕事ばかり指定たのですね。
一説には音楽に熱中しすぎて、ミサをすることを許されなかったという話もあります。
音楽家2世
ヴィヴァルディの父親は理髪師兼サン・マルコ大聖堂のヴァイオリン奏者でした。
音楽家2世でもあったのですね。
ヴィヴァルディはピエタ慈善院付属音楽院で長年ヴァイオリンを教えており、指揮者のような立場にもありました。
ヴィヴァルディの作品の多くは、ここでの演奏のために書かれています。
赤毛の司祭
ヴィヴァルディは髪が赤かったことから赤毛の司祭とも呼ばれています。
バイオリン、作曲家、指揮者などマルチに活躍し晩年ではオランダへ音楽イベントの総監督として呼ばれています。
ヴァイオリンのヴィルトゥオーソとしては特に有名で演奏旅行もおこない、その他にオペラ上演のためにもヨーロッパ各地を駆け回りました。
ヴィヴァルディはお金に縁があまりなかったようで、死後はウィーンの市民病院の共同墓地に埋葬されました。