4-13.音楽の母、ヘンデル

バロック時代の音楽を頂点へと極めたバッハとヘンデルですが、彼らの生き方は正反対でした。

バッハがドイツから外に出なかったのに対して、ヘンデルはヨーロッパを駆け巡りました。
この環境の違いからは、ヘンデルの音楽はバッハに比べて、明快で人間的な曲が多く見られます。
2人は生涯顔を合わせることはなかったそうです。

ヘンデルは大食いで身体も大きく太っていたそうです。
会話は乱暴でしたが、人を笑わせるのが得意でした。
晩年に目が見えなくなってからは、客を喜ばせるためにステージでオルガン演奏などもしたそうです。

バッハが音楽の父と呼ばれることから、ヘンデルは音楽の母とも呼ばれます。

外科医の子、ヘンデル

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel,1685年-1759年)はバッハと同じ年にドイツのハレで生まれました。

バッハは音楽家一族でしたが、ヘンデルの家系には音楽家はいませんでした。
ヘンデルは7歳の頃からオルガンを学び始めます。
若くから音楽の才能は発揮していましたが、外科医の父親の希望で大学で法律を学びます。
この頃から音楽家としては活動しており、1703年に大学を終えると同時にハンブルクのオペラ劇場のヴァイオリン奏者となります。

3年後の21歳のときにイタリアに渡りオペラを勉強しオペラを作曲します。
その後、ドイツのハノーヴァーの宮廷楽長になりますが、翌年にはロンドンにいきます。
そしてドイツとロンドンを往復しながら、最後にはイギリスに定住します。
1727年にはイギリスに帰化しました。

まさに国境のない活動をしたのがヘンデルです。

Georg Friedrich Handel

Georg Friedrich Handel

ヘンデルのオペラ

ヘンデルはオペラとオラトリオの作曲に最も力を注ぎました。

オペラは全部で50曲近く作曲しており、そのうち30曲ほどはロンドンの人々のために書かれました。
ヘンデルはイタリアから歌手を連れてきて、劇場の経営にも関わり、自らでオペラを上演したりもしました。
ときには経営破綻や劇場閉鎖もあったようです。

ヘンデルのオペラはイタリアの伝統に従っていました。
新しいことは試みてはいませんが、美しい旋律が特徴的です。

ヘンデルのオラトリオ

ヘンデルの中で、作品としても歴史的にも重要なものはオラトリオです。

もともとオラトリオは書いていましたが、53歳のときに経営に失敗してから積極的にオラトリオを作曲し名曲を生み出しました。

聖書からの題材が多く、イギリスの人々の好みである合唱を用いているのが特徴で、20曲ほどのオラトリオを書きました。

その中でも、エジプトのイスラエル、メサイア、サムソン、ユダス・マッカベウスは重要な作品として知られています。
メサイアは日本でも多く上演される人気の演目です。

ヘンデルの器楽曲

オペラやオラトリオほど目立ってはいませんが、ヘンデルは器楽曲も残しています。

コレッリの音楽を受け継いだ合奏協奏曲や室内ソナタの他に、トリオソナタ、オルガン協奏曲、オーボエ協奏曲なども作曲しています。

管弦楽曲である水の上の音楽や王宮の花火の音楽は、オペラやオラトリオを彷彿させる壮大な作品に仕上がっています。

ヘンデルはその他にもカンタータや受難曲を含む教会音楽も作曲しました。