シベリウスの「交響曲第3番」は、1907年に作曲が完成されました。
別名「アイノラ」とも呼ばれ、これはシベリウスの住んだ家からとられています。
※シベリウスの妻の名も「アイノラ」です。
「交響曲第3番」は、これまでのシベリウスの交響曲の特徴であった後期ロマン派の作品が影を潜め、シベリウスの前期と後期とを分ける重要な作品として位置づけされています。
ここではそんなシベリウス「交響曲第3番」の解説と名盤を紹介したいと思います。
シベリウスの「交響曲第3番」の演奏
スウェーデン放送交響楽団
指揮:エサ=ペッカ・サロネン(Esa-Pekka Salonen, 1958年6月30日 - )
[0:30]第1楽章:Allegro moderato
[11:30]第2楽章:Andante con moto, quasi allegretto
[21:00]第3楽章:Moderato - Allegro (ma non tanto) - Meno allegro
都会から田舎の生活へ
シベリウスはフィンランドの首都ヘルシンキで都会的な生活を送っていました。
作曲家として名声を得たシベリウスは、金遣いもあらく贅沢な生活を送っていたそうです。
そして借金も重ねていき、シベリウスの生活は荒れていきます。
そんなシベリウスですが、39歳(1904年)の頃に一大決心をします。
大都会ヘルシンキの生活をやめ、ヤルヴェンパーへの引越しを決意します。
ヤルヴェンパーは、ヘルシンキからは北に37kmの位置にある緑豊かな田舎でした。
新居を「アオノラ」と命名
シベリウスはヤルヴェンパーに家を建てます。
そして、その家を妻アイノラの名にちなんで「アイノラ」と名付けました。
家のすぐ近くには「トゥースラ湖」が見えました。
トゥースラ湖畔は20世紀初めから芸術家村として知られ、多くの芸術家に愛された湖でした。
(ユハニ・アホ、ペッカ・ハロネン、エーロ・ヤルネフェルト、ヨーナス・コッコネン、アレクシス・キヴィなど)
多忙なシベリウス
田舎に生活を写したシベリウスは、早速作曲活動に入ります。
「交響曲第3番」の作曲にも取り掛かります。
しかし当時のシベリウスは「売れっ子」で、作曲の依頼に加えて指揮の仕事も多くありました。
1905年には海外(ベルリン・ロンドン・パリ)も回っています。
そのため「交響曲第3番」の作曲活動は思うようにはかどりませんでした。
当初は1907年3月にロイヤル・フィルハーモニーで初演するために作曲されていましたが、それに間に合いませんでした。
結局この作品は、1907年9月25日母国フィンランドのヘルシンキでシベリウス自身の指揮によって初演されました。
これまでの交響曲とは「ガラリ」と変わる
これまでのシベリウスの交響曲は後期ロマン派的な傾向を持っていましたが、「第3番」からは作風が変わっていきます。
「第3番」以降は古典派や印象派の様式が取り入れられ、よりシンプルで引き締まった音楽へと変化していきました。
「交響曲第3番」はそのスタイルを移行する重要な作品として位置づけされています。
曲の構成
第1楽章:Allegro moderato
ハ長調、ソナタ形式。
第1主題は、イギリス訪問時に沿岸から見た霧に煙る景色が基だと言われている。
主題は2つとも素朴で発展の可能性が含まれている。
第2楽章:Andante con moto, quasi allegretto
嬰ト短調、自由な変奏曲
主要主題が断片的に暗示されてから曲は進んでいく。
主題は変形しながら4回変奏される間に推移部を置く形式になっている。
第3楽章:Moderato - Allegro (ma non tanto) - Meno allegro
ハ長調。
短い序奏で始まり、力強いアレグロに移る。
やがてコラール風の主題が加わり音楽は盛り上がりフィナーレに入る。
シベリウス「交響曲第3番」の名盤
ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルムラヴィンスキーによる「幻の音源」として近年発見されたもので、1963年にレニングラードで演奏されたものです。
「音質は良くない」ので音質を気にする場合はオススメできないかもしれませんが、当時60歳のムラヴィンスキーの壮大な音楽は一聴の価値アリです。
エフゲニー・ムラヴィンスキー(Evgeny Mravinsky/1903年6月4日-1988年1月19日)
ロシアの指揮者で20世紀を代表する指揮者の一人である。
1931年:マリインスキー劇場で指揮者デビュー
1934年:レニングラード・フィルハーモニー交響楽団で定期的に客演を開始
1937年:ショスタコーヴィチの第5交響曲を初演
1938年:レニングラード・フィルの常任指揮者に就任
当時低迷していたレニングラード・フィルを再興し、全盛期を築き上げた。
レニングラード・フィルハーモニー交響楽団
現在のサンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団
※オーケストラの名称は何度の改称されて今に至る。
1938年以降は、ムラヴィンスキーが生涯(半世紀近く)にわたって常任指揮者・音楽監督のポストを務めた。
ムラヴィンスキー死去(1988年)後は、ユーリ・テミルカーノフが現在に至るまで後任を務めている。
その他の曲目一覧(目次)
その他の作品・あらすじ・歌詞対訳などは下記リンクをクリックしてください。