グスタフ・マーラー(Gustav Mahler/1860年~1911年)の「交響曲第9番」は彼が亡くなる前年の1910年に完成されました。
第8番の後の九番目の交響曲には「大地の歌」が書かれているため、この「交響曲第9番」は彼の10番目の交響曲です。

「大地の歌」「交響曲第9番」「未完成の第10番」をあわせて、「告別三部作」とも呼ばれます。
3作品とも死を感じさせますが、とりわけこの「交響曲第9番」はそれを強く感じます。

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マーラーの最高傑作であるとともに、交響曲の締めくくりの作品として現在では評価されています。
ハイドンの時代から150年もの間に渡って交響曲は作曲され続けてきましたが、その完成形としての評価をこの作品は得ているのです。

作品全体としては4楽章から構成されてはいますが、テンポの速い楽章をテンポの遅い楽章で挟んでいるという珍しい特徴もあります。
その他にも「第9番」では再び声楽を用いない作品になっています。
また音楽的にも大曲ですが、その曲の複雑さや難易度の高さから、オーケストラの奏者たちが演奏する面でも大曲であります。

ここではマーラー「交響曲第9番」の解説や名盤を紹介したいと思います。

マーラー「交響曲第9番」の演奏

指揮:ハルトムート・へンヒェン (Hartmut Haenchen/1943年3月21日-)
演奏:フランス放送フィルハーモニー管弦楽団(Orchestre philharmonique de Radio France)

[00:35]第1楽章:Andante comodo(アンダンテ・コモド ニ長調 4/4拍子 自由なソナタ形式)

[29:49]第2楽章:Im Tempo eines gemächlichen Ländlers. Etwas täppisch und sehr derb(緩やかなレントラー風のテンポで、いくぶん歩くように、そしてきわめて粗野に ハ長調 3/4拍子)

[47:13]第3楽章:Rondo-Burleske: Allegro assai. Sehr trotzig(ロンド-ブルレスケ:アレグロ・アッサイ きわめて反抗的に イ短調 2/2拍子)

[1:25:14]第4楽章:Adagio. Sehr langsam und noch zurückhaltend(アダージョ。非常にゆっくりと、そしてさらに控えめに 変ニ長調 4/4拍子)

マーラーの人生が急変した頃の作品

この頃のマーラーには人生が大きく変わる出来事が次々起こります。

1907年に当時ウィーン宮廷歌劇場総監督であったマーラーは、いわゆるマスコミから大きな批判を浴びせられます。
その結果マーラーはニューヨークのメトロポリタン歌劇場へと拠点を移すことになります。
そして丁度その頃に長女マリアが病のためにわずか5歳の若さで亡くなってしまいます。
失意のマーラーにはさらに不幸が襲います。
マーラー自身が重い心臓病にかかっていることもわかってしまうのです。

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その後メトロポリタン歌劇場へ渡ったマーラーですが、マーラーを呼んだ総支配人が破産して退職してしまったためメトロポリタン歌劇場も去ることになります。
そして次なる活躍の場を与えられたのは、ニューヨーク・ フィルでの指揮者でした。(1909年)

その2年後の1911年に病によりマーラーはウィーンへ戻り、そこで生涯を終えます。
最後の言葉は「モーツァルト」だったそうです。

アメリカで指揮、ヨーロッパで作曲活動

マーラーはアメリカ、ニューヨークへ移りましたが、作曲活動はヨーロッパでおこなっています。
マーラーはウィーン宮廷歌劇場総監督時代からとても多忙な生活を送っていました。

そのためその頃より、マーラーは夏の休暇を作曲活動に当てていました。
1907年までは毎年、南オーストリア・ヴェルター湖畔のマイアーニックの山荘で作曲をしていました。
そこで交響曲第5番から第8番、「リュッケルトの詩による五つの歌曲集」や「亡き子をしのぶ歌」が作曲されています。

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しかし、亡き娘との思い出の詰まったその地で、マーラーは作曲をする気が起こらなかったようです。
その後、マーラーはアルト・シュルーダーバッハ(イタリアとオーストリアの国境)を休暇先として選び、ここで「第9番」は主に作曲されました。
ここで「大地の歌」や「交響曲第10番(未完)」も作曲されています。

第九の呪い

ベートーヴェンの書いた最後の交響曲は第九なのはみなさんご存知の通りです。
そして不思議なことにベートーヴェン以降のシューベルト、ブルックナーをはじめとする多くの作曲家は9曲以上の交響曲を残せませんでした。
「第九を書いてしまったら命を落としてしまう」といった恐ろしいジンクスができてしまうのです。

マーラーがこれを意識したかどうかは定かではありませんが、彼は9番目の交響曲に数字を付けずに「大地の歌」と命名しました。
そして10番目に書いた交響曲がこの「交響曲第9番」なのです。
1909年の夏から1910年の春にかけて作曲され彼が50歳を迎えるころでした。

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「交響曲第9番」を書いたことが災いとなったか、マーラーはこの作品を書いた一年後に帰らぬ人となってしまいます。
第九の呪いはマーラーにも当てはまってしまったのです。
現在ではこの「第九の呪い」は、「交響曲は大作なため、9作も書くころには大抵の作曲家は寿命に近づいている」というのが定説となっています。

マーラーは死を予感していた?

マーラーは作曲の際に第1楽章展開部分に対して「私の消え去った青春の日々、私の無くなった愛」と書いています。
また第3楽章冒頭のスケッチでは「アポロにいる私の兄弟」と記しています。

もしかするとマーラー自身が既に自分の死が近いことを感じていたのかもしれません。

初演にはマーラーは立ち会えなかった

マーラーはこの「交響曲第9番」を書いて間もなくこの世を去ったため、初演には立ち会えませんでした。
優れた指揮者でもあったマーラーはオーケストラとのリハーサルや初演を経て楽譜を書き直すことがしばしばあったため、マーラーがもう少し長生きしていれば、「交響曲第9番」はまた違った作品に変わっていたかもしれません。

初演はマーラーの葬儀から1年後の1912年にブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によっておこなわれました。
ブルーノ・ワルターはマーラーの弟子でもあり長年連れ添った友人でもあった人物です。

またマーラーは1897年から1907年までの10年間、ウィーン宮廷歌劇場監督の地位にありましたが、マーラーの交響曲がウィーンで初演されるのはこれが初めてのことでした。

マーラー「交響曲第9番」の名盤

数ある録音の中でも人気の高い、カラヤン指揮・ベルリンフィル演奏によるCDです。
演奏が素晴らしいことはもちろんのことですが、ライブ録音でかつ録音状態も良好なのが人気の一つでもあります。

1982年のベルリン芸術週間でのライブ録音です。

ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan/1908年4月5日-1989年7月16日)
オーストリアの指揮者

1955年から1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務める。
ウィーン国立歌劇場の総監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督も務めるなど、歴史上最も偉大な指揮者の一人である。
日本には11度も来日しており、日本人には小澤征爾が師事したことでも知られている。

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Berliner Philharmoniker)
世界を代表するオーケストラの一つで、日本において絶大な人気を誇る。
重厚なドイツ的サウンドを奏でながらも、バラエティに富んだプログラムを演奏し常に世界の最先端をリードしている。

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