セルゲイ・プロコフィエフ(Sergei Prokofiev/1891年-1953年)の「ヴァイオリン協奏曲第2番」は1935年に作曲されました。
約25分の作品で、以前書かれた「ヴァイオリン協奏曲第1番」とは対照的な作風となっています。

1番がロシアから亡命する直前に書かれた青春時代の作品に対し、2番はロシアへ戻る直前に書かれた作品です。
ここでは、プロコフィエフの「ヴァイオリン協奏曲第2番」の解説と名盤を紹介したいと思います。

優れたピアニストでもあったプロコフィエフ

プロコフィエフは作曲家であると同時に素晴らしいピアニストでもありました。
現在のウクライナで生まれた彼は5歳で初めて作曲をし9歳でオペラを書くなど神童として知られていますが、プロのピアニストとしても活躍しました。

作曲家でもありピアニストでもあった彼は多くのピアノ曲を書き、それらは現代のピアニストにとって重要な作品ばかりです。
もちろんそれらのピアノ作品の初演の多くは彼自身が演奏しています。

ちなみに1918年の日本滞在中には、東京と横浜でピアノリサイタルも開催しています。

演奏旅行中に依頼を受けて作曲

そんな優れたピアニストでもあったプロコフィエフは、1930年代に伴奏者としてフランス人の名ヴァイオリニスト、ロベール・ソエタンと演奏旅行に出かけています。
その演奏旅行先で依頼を受けて作曲したのがこの「ヴァイオリン協奏曲第2番」でした。

初演のソリストはもちろんロベール・ソエタンが演奏しており、この作品自体もソエタンに献呈されました。
第1楽章はパリで、第2楽章第1主題の着想はロシアのヴォロネジで作曲され、初演はマドリードでおこなわれました。

伝統的な作品「ヴァイオリン協奏曲第2番」

この作品の20年近く前の1917年に作曲された「ヴァイオリン協奏曲第1番」は、彼の青春時代の作品で作風が大きく異なります。
1番と異なり2番は伝統的な音楽でとても聴きやすい作品となっています。

プロコフィエフ自身も1番と2番は異なる作品にしたかったそうです。

prokofiev

作風にはロシアの情勢が影響

この「ヴァイオリン協奏曲第2番」の作風は当時のロシアの情勢が影響していると言われています。

1917年、プロコフィエフが26歳の頃にロシア革命が起こります。
それをきっかけにアメリカへ亡命したプロコフィエフはアメリカで音楽家として活動をはじめます。
その後ドイツやフランスでも活動しましたが、1920年代後半になると祖国への思いを募らせるようになります。

そして亡命後は関係を断絶していたロシアとも少しずつ交流を再開するようになります。

ロシアでプロコフィエフ人気

1930年代に入るとプロコフィエフはパリでは評価が落ちて来た一方で、祖国ロシアでは大成功を収め人気を博します。
そして1936年にロシアに完全帰国するわけですが、この作品はその間に書かれました。

1936年はスターリンがソビエト社会主義共和国連邦憲法(スターリン憲法)を制定した年です。
このソ連型社会主義のはじまりの時期に生まれたのが「ヴァイオリン協奏曲第2番」なのです。

プロコフィエフ「ヴァイオリン協奏曲第2番」の名盤

1999年にパガニーニ国際ヴァイオリン・コンクールにて史上最年少で優勝した日本人ヴァイオリニスト、庄司紗矢香さんによるヴァイオリン協奏曲第1番と第2番です。
オーケストラはサンクトペテルブルク・フィル(旧レニングラード・フィル)です。
派手さはありませんが、とても美しい演奏が印象的です。

2014年リリースのもので、当然ですが音質も問題ありません。