目次
項目 | データ |
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作曲年 | 1772年 |
演奏時間 | 約25分 |
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn/1732年-1809年)の『交響曲第45番(告別)』は、1772年に作曲された作品です。
ハイドンの交響曲の中でも、人気の高い作品の一つにあたります。
『告別』の愛称はハイドンが付けたものではなく、作曲して約10年後に別の人によって付けられました。
ここではハイドン『交響曲第45番(告別)』の解説と名盤を紹介したいと思います。
ハイドン『交響曲第45番(告別)』の演奏
[00:24]第1楽章:Allegro assai[09:17]第2楽章:Adagio
[17:34]第3楽章:Menuetto. Allegretto
[21:27]第4楽章:Finale. Presto - Adagio
夏の離宮で、団員たちはホームシックに
ハイドンは、生涯の大半をエステルハージ家に仕えて過ごしました。
エステルハージ家の当主ニコラウス侯爵は、1766年にヴェルサイユ宮殿のような城を建設します。
侯爵はそこで夏季休暇を過ごし、ハイドン率いる楽団もそれに同行します。
エステルハージ家の住むアイゼンシュタットからは、40km程離れた場所です。
この湖は「ウィーンっ子の海」としても知られており、今では毎年夏に音楽祭も開かれています。
しかし、ハイドンなどの一部の役付きの人を除いて、楽団たちは家族を連れていくことはできませんでした。
いわゆる単身赴任です。
1772年の滞在は例年以上に長引き、楽団員たちは家族と会えない日々が続きました。
「僕たち帰りたい!」というメッセージを曲に込めた
ハイドンは、部下たちの「家族に会いたい」という願いを叶えてやりたいと考えます。
そこでハイドンは、作品でそのメッセージを訴えることにします。
演奏中「曲の最後に向かって、楽団員が舞台から一人ずつ去っていく。」ことで、ハイドンは侯爵に皆の心を伝えます。
自分の演奏を終えた団員は、譜面台の明かり(ロウソク)を消します。
そして、一人ずつ舞台から去っていきました。
当時の演奏の最後には、ヴァイオリニスト2人(ハイドン自身とコンサートマスター)だけが残りました。
これは『告別』第4楽章の演奏です。
実際に団員たちが一人ずつ舞台袖に去っていく様子が見れます。
団員たちは無事家族の元に帰る
作品を聴いたニコラウス侯爵は、ハイドンの意図を理解します。
そして翌日には休暇が与えられ、団員たちは家族の元に帰ることができたそうです。
「Sturm und Drang」最後の作品
ちなみにハイドンにおける1766年~1773年頃までの創作期は、「Sturm und Drang(シュトゥルム・ウント・ドラング)の時代」と呼ばれています。
『告別』は、その時期の最後の交響曲ではないかとも考えられています。
この創作期の始まる1766年は、ハイドンがエステルハージ家の楽長に就任した年でした。
当時楽長だったヴェルナーの死によって、ハイドンは副楽長から楽長に昇進したのです。
日本では「疾風怒濤」と訳されていますが、それぞれのドイツ語の意味は「Sturm=嵐」「und=英語のand」「Drang=衝動」という意味です。
この呼び名からイメージできるように、この時代のハイドンの作品は感情表現が豊かな作品が多く作られています。
「短調」が多いことが特徴
当時、音楽は長調で書かれることが一般的で、短調で書かれることは稀でした。
そんな中、ハイドンはこの時期に短調の交響曲を6曲も書いています。
ハイドンの交響曲107曲のうち、短調の曲は11曲しかありません。
いかにこの時期に短調の作品が集中しているかがわかります。
ちなみにこの時期に書かれた『交響曲第44番(悲しみ)』も短調の作品です。
ハイドン『交響曲第45番(告別)』の名盤
【収録曲】
ハイドン:交響曲第44番ホ短調『悲しみ』
ハイドン:交響曲第45番嬰へ短調『告別』
ハイドン:交響曲第48番ハ長調『マリア・テレジア』
【演奏】
管弦楽:イギリス室内管弦楽団
指揮:ダニエル・バレンボイム
ピアニストとしても有名なバレンボイムですが、彼が指揮者としてデビューしたのはイギリス室内管弦楽団とのモーツァルトの交響曲録音(1966年~)でした。
バレンボイムにとってイギリス室内管弦楽団はとても関係の深いオーケストラなのです。
このCDは、そんな彼らがタッグを組んで70年代に録音したハイドンの交響曲集の一部です。
3曲ともにハイドンのシュトゥルム・ウント・ドラング期の交響曲で、繊細で軽快なハイドンの音楽が印象的です。
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