作品名ボレロ
作曲家モーリス・ラヴェル
依頼者イダ・ルビンシュタイン(バレリーナ)
作曲年1928年
初演1928年11月22日(パリ・オペラ座)
演奏時間15分

ラヴェルの「ボレロ」は1928年に作曲されたバレエ音楽です。
同じリズムが最初から最後まで延々と繰り返され、さらに二つのメロディーが繰り返されるという独特の音楽です。
次第に音楽が大きくなっていくことから「世界一長いクレッシェンド」と言われることもあります。

初演を聴いた観客が「この曲は異常だ」と言った感想に対して、ラヴェルは「この曲をよくわかっている」と返したそうです。
何だか不思議なエピソードです。
ラヴェル自身が「この作品には音楽がない」と語っており、音量と音厚が次第に増大するシンプルな構成はまさに実験的作品だと言えます。
またラストのクライマックスでいきなり転調するのも驚きの展開です。

 バレエ音楽ではありますがジャンルに関係なく、多くの音楽愛好家に愛されている作品です。
またバレエの音楽としてではなく、オーケストラ単体で演奏される機会が数多くあります。

ここではラヴェル「ボレロ」の解説とオススメ名盤の紹介をします。

この記事のポイント

・ロシアのバレリーナの依頼で作曲された
・子供の頃、父親が連れて行ってくれた工場の音からヒントを得た
・ラヴェルの予想に反し、ボレロは瞬く間に人気となった
・ボレロの演奏で、ラヴェルと名指揮者トスカニーニは不仲になった
・ラヴェルに作曲する能力がある頃の最後の作品の一つである

ラヴェル「ボレロ」の演奏

ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団(West-Eastern Divan Orchestra)
指揮:ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim, 1942年 - )

ラヴェル「ボレロ」の解説

ラヴェル

バレリーナからの依頼で作曲された

「ボレロ」はロシア生まれのバレリーナでもあり役者でもあったイダ・ルビンシュタインの依頼により作曲されました。
彼女自身のバレエ団のためにラヴェルにスペイン風のバレエ作品を依頼したのです。

元々はイサーク・アルベニス(スペインのピアニスト・作曲家)のピアノ曲を管弦楽用に編曲する予定でした。
しかしラヴェルは編曲ではなく、全く新しい曲(ラヴェル)を作曲することにしました。

ボレロは、1928年の7月から10月にかけて作曲されました。

アメリカへの演奏旅行から帰国したラヴェルは、海水浴のためにフランスにある別荘に訪れます。
その別荘でラヴェルは友人の作曲家ギュスターヴ・サマズイユにボレロの主題を弾いて見せたと言われています。

その時ラヴェルは
「この曲はしつこいと思わない?」
「発展せずに何度も繰り返して、オーケストラをどんどん大きくしていこうと思ってるんだけど。」
と語り、
シンプルな主題をオーケストレーションを変えて繰り返していくアイディアを友人に披露したそうです。

スペインの工場からヒントを得た

ラヴェルはこのアイデアはスペインの工場からヒントを得たと語っています。
ラベルの父はラヴェルを小さいときに良く工場へ連れていったそうです。
「ボレロ」と「工場の音」を繋げて聴いてみると、また変わった聴き方が出来るかもしれません。

ちなみにメロディーは「ラヴェルの母親が歌ってくれた子守歌」が元になっているとも言われています。

「ボレロ」はバレリーナのために書かれた曲ですのであらすじがあり、スペイン人の踊り子の曲となっています。

初めは「ファンダンゴ」のタイトルの予定でしたが、後に「ボレロ」に変更されたそうです。

ボレロのあらすじ

イダ・ルビンシュタイン

ボレロのあらすじは次の通りです。

①舞台はセビリアの酒場で、スペイン人の踊り子が舞台でゆったりとリズムをとりはじめます。
②次第に踊りへと変わり、踊りが華やかになってきます。
③それにより最初は気にも留めていなかった酒場の客たちも踊りに夢中になり始め、やがて皆で一緒に踊り出します。

瞬く間に大人気に

初演は1928年11月22日にパリ・オペラ座において、依頼主のイダ・ルビンシュタインのバレエ団によって行なわれました。
初演は大成功を収め、その後イダ・ルビンシュタインが持っていた1年間の独占権がなくなります。
すると「ボレロ」は世界の至る所で演奏されるようになり、瞬く間に大人気曲となります。

日本でも初演から約2年後の1931年1月28日に新交響楽団(後のNHK交響楽団)に演奏されました。

初めての録音は1930年のラヴェル自身の指揮によるラムルー管弦楽団の演奏だと言われています。
その後同年にボストン交響楽団(セルゲイ・クーセヴィツキー指揮)、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(ウィレム・メンゲルベルク指揮)でも「ボレロ」が録音されました。

ラヴェル自身はこれほどまでに人気が出たことは予想外だったようで、驚きを隠せませんでした。
むしろほとんどのオーケストラが演奏を拒否すると、ラヴェルは予想していたそうです。

指揮者泣かせの「ボレロ」

トスカニーニ

ラヴェルは自らの指揮で何度も「ボレロ」を振りましたが、テンポを忠実に守って指揮をし続けたそうです。

このテンポについては面白いエピソードが残っています。
名指揮者のアルトゥーロ・トスカニーニが「ボレロ」をニューヨーク・フィルの演奏旅行(パリ・オペラ座)で指揮したときのことでした。
トスカニーニがテンポを速く演奏したり、アッチェレランドをかけて演奏したのを聴いたラヴェルはとても怒ったそうです。

カーテンコールで拍手が鳴り響く中、トスカニーニの呼びかけにラヴェルは応じなかったと言われています。

トスカニーニはイタリア出身の20世紀前半を代表する指揮者で、スカラ座やメトロポリタン歌劇場等の音楽監督を歴任しました。
バイロイト音楽祭で「ドイツ系以外の指揮者として初めて」指揮を振るなど、ドイツやロシアなどの音楽も得意としました。

舞台裏でラヴェルとトスカニーニが言い合いになったとの証言があります。
「速すぎる」と怒っているラヴェルに、トスカニーニは「こう演奏するしかない!」と言い返したそうです。

その後ラヴェルはお互いの関係を修復しようと、トスカニーニに手紙を送ったり自身のピアノ協奏曲の指揮を依頼したりしました。
しかしトスカニーニはそれを拒否します。

この騒動から約7年間、トスカニーニはラヴェルの作品を指揮することはありませんでした。

皮肉なことに、このトスカニーニ事件によって、「ボレロ」はさらに有名になりました。

ラベルが健康な頃に作曲された最後の作品の一つ

ラヴェルは1927年頃から記憶障害言語症で苦しみ始めます。
そして1932年のパリでタクシー乗車時に起きた交通事故をきっかけに、症状が悪化し始めました。

ボレロは、ラヴェルがまだ比較的健康であった頃に書かれた最後の作品の一つです。

交通事故以降、ラヴェルは作曲活動が思うようにできなくなりました。
手足が不自由になり、字も上手く書けなくなりました。
また得意の水泳もままならず、言葉もスムーズに出てこなくなったそうです。

ラヴェル「ボレロ」の名盤

日本が世界に誇るマエストロ、小澤征爾指揮によるボストン交響楽団の名演です。
リズムに感情がのっているかのような印象で、次第に大きくなるクレッシェンドは小澤征爾の胸の高鳴りがそのまま演奏に乗り移っているかのようです。

「ボレロ」だけでなく、収録されている「亡き王女のためのパヴァーヌ」などの演奏も、日本のクラシックファンに長く愛されている名演です。

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