項目データ
作曲年1778年夏(推定)
演奏時間15分強

モーツァルトの「ピアノソナタ第8番」は、1778年の夏に作曲されたと現在のところ考えられています。
※新モーツァルト全集では第9番とされています。

モーツァルトの中では珍しい短調の作品で、悲劇的で暗さに覆われている音楽が印象的です。
これはモーツァルトの母の死が関連していると考えられています。
同時期に「ヴァイオリンソナタ第28番」も作曲されており、これも珍しい"短調"の作品です。

ここではモーツァルト「ピアノソナタ第8番」の解説と名盤を紹介したいと思います。

モーツァルト「ピアノソナタ第8番」の演奏

[00:00]第1楽章:Allegro Maestoso イ短調 4/4拍子
[08:33]第2楽章:Andante cantabile con espressione ヘ長調 3/4拍子
[19:09]第3楽章:Presto イ短調 2/4拍子

前年まで"ザルツブルクの宮廷音楽家"だったモーツァルト

「ピアノソナタ第8番」が作曲される1年前(1777年)、モーツァルトはザルツブルクの宮廷音楽家として活動していました。
ザルツブルクで活動していたモーツァルトでしたが、他都市で依頼されたオペラなどの作曲活動も並行しておこなっていました。

当時の習慣では、初演は作曲家の指揮によって行われることが通例でした。
そのため、外国からの依頼の場合は、外国へ指揮に向かう必要がありました。
その際モーツァルトは「休暇」を申請して、演奏活動へ向かいました。

「休暇」を許さない"新しい大司祭"

しかし「休暇」について問題が起こります。
新しく変わったザルツブルクの大司祭が、モーツァルトの休暇を許可しなかったのです。

困ったモーツァルトは辞職願を出します。
辞職願はなかなか受け入れられませんでしたが、3度目でようやく受理されたそうです。

就職活動の末、パリに辿りつく

職を失ったモーツァルトは、職探しの旅に出ます。
父レオポルトはザルツブルクを離れることができなかったため、母マリア・アンナが同行しました。

しかしミュンヘン・アウクスブルク・マンハイムと旅しましたが、中々良い職は見つかりません。
そして1778年3月にモーツァルトはパリに入ります。

パリでの"母の死"

モーツァルトの就職活動は、パリでもうまくいきませんでした。
ただ、「交響曲第31番(パリ)」の初演は好評だったと言われています。

そして就職活動もうまくいかないモーツァルト一家に、さらなる不幸が訪れます。
母マリア・アンナが6月に重い病気にかかります。
そして7月には命を落としてしまうのです。
パリでの半年間は(1778年3月から9月まで)、モーツァルトにとっては最悪の思い出となってしまいました。

 当時の治療法は「血を大量に抜く」ことでした。
この治療法が原因で、母マリア・アンナの体調はさらに悪化したのかもしれません。

その後パリを離れたモーツァルトは、"一時的に"ザルツブルクでの宮廷音楽家に復帰します。
そして再びザルツブルクを離れ、ウィーンに移ります。

"母の死の前後の作品"と考えられています。

モーツァルトの「ピアノソナタ第8番」は、この母の死の前後の作品ではないかと言われています。
悲劇的で暗い音楽は、母の死が関連しているのではないかと考えられています。
しかし細かい作曲の経緯等は、残念ながら現在のところ不明なままです。

モーツァルトの「短調」の作品は珍しく、「ピアノソナタ」においてはこの8番と第14番の2作品しかありません。

モーツァルト「ピアノソナタ第8番」の名盤

内田光子のモーツァルト「ピアノ・ソナタ」
内田光子さんは1982年(5月-6月)にロンドンでモーツァルト「ピアノ・ソナタ」の連続演奏会をおこない、大成功を収めました。
そして演奏会の大成功を受けてピアノソナタの全曲録音がなされ、その録音はグラモフォン誌のレコード・オブ・ジ・イヤー賞(1989)を受賞しました。

このCDはその録音から、「第8番」「第11番」「第14番」「第15番」がピックアップされたものです。

内田 光子(うちだ みつこ/1948年12月20日-)
1966年:ミュンヘン国際コンクール第2位
1969年:第3回ウィーン・ベートーヴェン国際コンクール第1位
1970年:ショパン・コンクール第2位(現在も日本人最高位)
1987年:サントリー音楽賞受賞
2008年:ベルリン・フィルハーモニーのレジデント・ピアニストに選出
2009年:大英帝国勲章「デイム」を授与される

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