ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms/1833年~1897年)のヴァイオリン協奏曲は、1878年に作曲されました。

ベートーヴェンとメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲と共に、「三大ヴァイオリン協奏曲」とも呼ばれています。
またチャイコフスキーも加えて「四大ヴァイオリン協奏曲」と呼ばれることもあります。
また演奏者にとっても難曲として知られています。

ここではブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」の解説と名盤を紹介したいと思います。

ヴァイオリンに精通していたブラームスによる作品

ブラームスはピアニストとしても知られていますが、幼い頃よりヴァイオリンとチェロを学んでいました。
またピアニストとして当時の名ヴァイオリニストであるヨーゼフ・ヨアヒムの伴奏もおこなっていました。
ヨアヒムはこの作品の初演時にソリストとして演奏しています。
ブラームスにとってヴァイオリンという楽器は熟知した楽器であり、音色や特性もよくわかっている楽器であったのです。

ブラームス唯一のヴァイオリン協奏曲

そんなブラームスが書いた唯一のヴァイオリン協奏曲は、彼の創作活動が絶頂期であった45歳の頃に書き始めた作品です。
交響曲第2番を書き終えたブラームスがこの作品を書いたきっかけは、サラサーテのヴァイオリンを聴いたことだったのではと言われています。
またヨアヒムが弾くベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」を聴いたことがきっかけだったとも言われています。
いずれにせよ、満を持しての作品だったと言えるでしょう。
曲は初演のソリストであるヨアヒム献呈されました。

作曲はヨアヒムと時には議論をして進められましたが、議論がかみ合わないところもあったせいか作品完成後は二人はしばらく「気まずい関係」になったそうです。

brahms

初演は1879年1月1日にブラームスの指揮によりライプツィヒの新年コンサートで演奏され、大成功を収めました。
この作品を聴いたシベリウスは交響曲的な雰囲気に衝撃を受け、自身のヴァイオリン協奏曲を書き直すこととなります。
批評家からは高評価を受け「ベートーヴェンとメンデルスゾーン以降の最も重要なヴァイオリン協奏曲」と称えられました。
これらの3作品がその後「三大ヴァイオリン協奏曲」と呼ばれることとなります。

ただ「四大ヴァイオリン協奏曲」の最後の一人であるチャイコフスキーは、この作品を評価しなかったそうです。
一方で、ブラームスを支持したハンスリックはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を初演後に酷評しました。
お互いがお互いを酷評しあっていることになります。

渋いヴァイオリン協奏曲

この頃の「ヴァイオリン協奏曲」と言えば、ヴァイオリンの華やかな印象を持ちますがブラームスのこの作品は一味違います。
オーケストラのヴァイオリンが一つになり、交響曲のような雰囲気です。
穏やかな優美な音楽だけでなく、重厚なサウンドがどっしりと鳴り響きます。

ただ、そうは言ってもヴァイオリニストにとってはテクニック的にもとても大変で、難曲には変わりありません。

ヨアヒムはブラームスとクララのキューピット!?

余談ですが、ブラームスをシューマンに紹介したのはヨアヒムでした。
ヨアヒムはブラームスとクララのキューピットとも言えるかもしれませんね。

クララはシューマンの妻で、ブラームスとの恋愛関係があったのではと言われている人物です。

ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」の名盤

名盤として名高いクリスティアン・フェラス(ヴァイオリン)ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)とベルリンフィルでの演奏のブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」です。

ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan/1908年4月5日-1989年7月16日)
オーストリアの指揮者

1955年から1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務める。
ウィーン国立歌劇場の総監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督も務めるなど、歴史上最も偉大な指揮者の一人である。
日本には11度も来日しており、日本人には小澤征爾が師事したことでも知られている。

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Berliner Philharmoniker)
世界を代表するオーケストラの一つで、日本において絶大な人気を誇る。
重厚なドイツ的サウンドを奏でながらも、バラエティに富んだプログラムを演奏し常に世界の最先端をリードしている。

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