アレクサンドル・グラズノフ(Aleksandr Glazunov/1865年~1936年)の「ヴァイオリン協奏曲」は、1904年に作曲された彼を代表する作品です。
初演はグラズノフ自身の指揮、レオポルト・アウアーの独奏により1905年におこなわれ、アウアーに献呈されました。

この作品はチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」に刺激を受けたと言われていますが、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」も最初はアウアーのために書かれた作品でした。
※アウアーは初演での演奏を拒否しています。

Glazunov

グラズノフは日本では知名度が低いですが、作曲家の他にも音楽教育者として知られています。
グラズノフはペテルブルク音楽院の院長を1906年から1917年まで務め、その時の門弟にはショスタコーヴィチがいました。
またグラズノフは1928年にソ連から亡命し、亡くなるまでソ連に戻ることなくその生涯を終えました。
余談ですが、グラズノフはかなりの酒好きで音楽院でも隠れながらお酒を飲んでいたそうです。

ここではグラズノフ「ヴァイオリン協奏曲」の解説と名盤を紹介したいと思います。

恵まれた環境で育ったロシアの作曲家、グラズノフ

音楽家と言えば苦労話はつきものですが、グラズノフは何不自由ない環境で育ちました。
サンクトペテルブルクの富裕な出版業者の家庭に生まれたグラズノフは、9歳でピアノを13歳で作曲はじめその神童ぶりを発揮します。
両親も音楽に対して理解が深かったこともプラスとなりました。
彼が初めて書いた交響曲である第1番は、まだ彼が16歳の頃に書かれました。

そして、順調に才能を開花させていグラズノフに、更なる追い風が吹きます。
ロシアの豪商で芸術家を支援していたベリャーエフの目にグラズノフはとまったのです。
グラズノフはベリャーエフにヨーロッパ遠征に連れていってもらい、そのときにリストと出会ったり、自らの作品を上演してもらっていりしています。

創作絶頂期の作品

グラズノフは早いうちから名声を獲得し、30代半ばではすでにロシア国内では十分な評価を得ていました。
そんな脂の乗った時期で、彼の創作意欲も高かった時代に作られたのが「ヴァイオリン協奏曲」です。

この頃にはその他に「交響曲第7番(田園)」(1902年)「交響曲第8番」(1906年)などが作曲されています。

音楽の転換期に伝統を守りぬいたグラズノフ

グラズノフの生きた時代は新しい音楽が次々と誕生した時代でしたが、そのような音楽にグラズノフは否定的な態度をとりました。

リヒャルト・シュトラウスの音楽も好まなかったと言われますし、ロシアの後輩にあたるプロコフィエフやストラヴィンスキーの音楽も否定したそうです。
そういう意味ではこの「ヴァイオリン協奏曲」は後期ロマン派を締めくくる芸術作品であると同時に、これからの時代の音楽に取り残されていくグラズノフの象徴的作品でもあったのかもしれません。

曲の構成

3楽章で構成されています。

第1楽章Moderato (イ短調、自由なソナタ形式)

第1主題はイ短調、第2主題はへ長調で演奏されます。
第2主題を中心とした展開部は、完結しないままアンダンテに代わります。

第2楽章Cadenza : Andante sostenuto(変二長調 3/4拍子)

変二長調の哀しげな主題が奏でられ、独奏ヴァイオリンによるピツィカートにつながります。
第1楽章第2主題、その後第1楽章第1主題を用いて音楽が奏でられます。

転調が頻繁におこなわれるため、調性は決まっておりません。

第3楽章Allegro(イ長調 6/8拍子。自由なロンド形式。)

狩猟音楽のモティーフによる二つの主題は、バグパイプやバラライカをイメージして演奏されているそうです。
バグパイプ・・・リード式の民族楽器
バラライカ・・・ロシアの代表的な弦楽器で、ギターと異なり共鳴胴が三角錘形をしているのが特徴です。

グラズノフ「ヴァイオリン協奏曲」の名盤

ヴェンゲーロフ(ヴァイオリン)、アバド指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団という豪華な共演です。
同じCDに収録されているチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」も必聴です。

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