項目 | データ |
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作曲年 | 1917-1921年 |
初演 | 1921年12月16日 (ピアノ:プロコフィエフ、指揮:フレデリック・ストック、シカゴ交響楽団) |
演奏時間 | 30分弱 |
セルゲイ・プロコフィエフ(Sergei Prokofiev/1891年-1953年)の『ピアノ協奏曲第3番』は、20世紀を代表するピアノ協奏曲の一つです。
もちろん5曲ある(未完を含むと6曲)彼のピアノ協奏曲の中でも最も有名な作品です。
1番、2番は高度なテクニックが要求され聴衆にとって決して聴きやすい音楽ではありませんでしたが、この第3番はとてもバランスが良く、それが人気の一因ともなっています。
初演は残念ながら成功しませんでしたが、すぐに人気を博し、この作品でプロコフィエフは偉大な作曲家としての地位を確立しました。
ここではプロコフィエフ『ピアノ協奏曲第3番』の解説と名盤の紹介をしたいと思います。
プロコフィエフ『ピアノ協奏曲第3番』の演奏
第1楽章:Andante - Allegro
第2楽章:Tema con variazioni
第3楽章:Allegro ma non troppo
独奏:ユジャ・ワン (王羽佳/Yuja Wang/1987年-)
中国のピアノスト。2006年以来、度々来日公演もしている。
指揮:ダニエレ・ガッティ(Daniele Gatti/1961年)
イタリアの指揮者
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
オランダ・アムステルダムに本拠を置くオーケストラ
ロシア革命(1917年)勃発の頃に作曲を開始した
1915年9月(24歳)より、プロコフィエフはペトログラード音楽院のオルガン科に再入学していました。
そしてプロコフィエフが『ピアノ協奏曲第3番』の作曲を開始したのは、1917年、つまりロシア革命勃発の年でした。
ロシア革命で国内が混乱に陥る中で、プロコフィエフは亡命を考えだします。
そして彼は1918年に「アメリカ亡命」を決意します。
そのため『ピアノ協奏曲第3番』の作曲は一時中断されることとなります。
日本を経由してアメリカ入り
プロコフィエフはアメリカへ亡命するために、日本を経由しました。
彼は2か月間の日本滞在で京都、奈良、大阪、東京、軽井沢、箱根といった様々な土地を訪れました。
さらに東京と横浜でピアノ・リサイタルも開催しました。
また、プロコフィエフは奈良滞在中に『白鍵四重奏曲』の構想を考えています。
これが『ピアノ協奏曲第3番』の原形ではないかと言われています。
亡命先アメリカで初演される
1918年から1922年までの間、プロコフィエフの拠点はアメリカに移ります。
『ピアノ協奏曲第3番』作曲は、滞在先のブルターニュ(フランス)で完成しました。
ブルターニュは彼に曲を献呈し、バリモントも「第3協奏曲」という詩を書いています。
当時の彼はニューヨークとシカゴを中心に音楽活動を展開しようとしていましたが、そのシカゴで『ピアノ協奏曲第3番』は初演されました。
しかし初演の反応はいまいちで、さらにはニューヨークでの再演も高評価を得ることはできませんでした。
パリでの演奏で評価がうなぎ上り
しかし翌年1922年でのパリ(指揮:セルゲイ・クーセヴィツキー)初演で、作品は喝さいを浴びます。
そしてその後も開かれたヨーロッパ各地での演奏会で、作品の評価は次第に高まっていきました。
プロコフィエフ『ピアノ協奏曲第3番』の名盤
【プロコフィエフ『ピアノ協奏曲第3番』、ラヴェル『ピアノ協奏曲』】
輝かしく力強いアルゲリッチのピアノが堪能できる1967年録音の名盤です。
アルゲリッチの若々しく情熱的で疾走感溢れるピアノが、ベルリンフィルとアバドの音楽にピタリとはまり、色彩豊かでスケールの大きな演奏を生みだしています。
独奏:マルタ・アルゲリッチ
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:クラウディオ・アバド
録音時期:1967年5月6月(ベルリン、イエス・キリスト教会)
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