ジュゼッペ・ヴェルディ

出生地:ブッセート近郊の小村レ・ロン・コーレ村
生年月日:1813年10月10日
没年月日:1901年1月27日(87歳)
職業:作曲家
ニックネーム:オペラ王

歴史上最も偉大なオペラ作曲家の一人。
20世紀後半のイタリア紙幣には、ヴェルディの肖像が描かれていた。
また著作権の概念を取り入れた人物でもあり、経営者としての才能もあった。
晩年は音楽家のための老人ホームを建設し、貧しい音楽家たちを救った。

「ヴェルディといえばオペラ」

「オペラといえばヴェルディ」

ヴェルディとオペラは、切っても切れない関係にあります。
彼の代表作としては『ナブッコ』『リゴレット』『椿姫』『アイーダ』などがあげられます。

ここではそんな「オペラ王」ヴェルディの生涯と人物像を分かりやすく紹介していきます。
ヴェルディの生涯に触れて、彼のオペラ作品をもっと身近に感じてみてください。

ヴェルディの生涯

宿屋の息子として生まれる

ヴェルディは現在のイタリアのパルマ付近の村で生まれました。
実家は宿屋の他に雑貨屋や郵便業、農業も営んでいました。

父親は村では珍しく読み書きのできる人物だったそうです。

ヴェルディには妹もいましたが、残念ながら妹は17歳で亡くなっています。

教育熱心な家庭で育つ

ヴェルディは幼少期の頃から音楽の才能を発揮しており、8歳の頃には地元の教会でオルガニストとして演奏していました。

また音楽だけではなく、ヴェルディは11歳の時にイタリア語、ラテン語、人文科学、修辞学の教育を受けています。

12歳の頃には、ヴェルディは音楽の専門教育を受けるようになりました。
やがてヴェルディは地元のオーケストラのリーダーとなり、自ら作曲した作品でコンサートも開かれました。

そして18歳頃までに100曲以上の作品を書きました。

父親はヴェルディの教育に熱心でしたが、大人になったヴェルディはそれを隠し「ただの農民の息子だった。」と語っています。

ミラノで音楽活動を始める

18歳の時にヴェルディはミラノの音楽院を受験しますが、結果は不合格となります。
年齢制限を大きく超えていたことも、不合格の理由の一つでした。

そこでヴェルディは音楽院の教師であるラヴィーニャから個人レッスンを受けるようになります。
ラヴィーニャはスカラ座で作曲や演奏もしていたので、ヴェルディはスカラ座に出入りするようになります。

しかし地元ブッセートの有名な音楽家が亡くなったため、ヴェルディはその後継者として一度地元に戻ります。
この地でマルゲリータと結婚し、長女も生まれます。
やがてヴェルディは、再びミラノに飛び立ちます。

『ナブッコ』で名声を獲得

ミラノに戻ったヴェルディは、記念すべき第1作のオペラ『オベルト』を作曲します。
『オベルト』は成功し、次の作曲依頼が舞い込みますが、2作目のオペラ『1日だけの王様』は散々な結果に終わります。

ヴェルディは音楽活動の引退を考えるほど落胆します。
そして、この頃にヴェルディは息子を1歳の若さで亡くし、妻マルゲリータも脳炎で亡くしました。
その悲しみは計り知れなかったことでしょう。

しかし意気消沈したヴェルディの目にある台本の歌詞が入ってきます。
その歌詞とは有名な合唱曲「行け、わが思いよ(Va,pensiero)」でした。

作曲意欲を取り戻したヴェルディは、オペラ『ナブッコ』を完成させます。
『ナブッコ』は大成功を収め、ヴェルディの名声は高まります。

『ナブッコ』の成功で、ヴェルディの作曲の報酬額は大幅に上がります。
これ以降ヴェルディは、約10年の間に16ものオペラ作品を作曲しました。

まさに多忙を極めた日々で、身を削って作曲活動に励みました。

イタリアを離れての音楽活動

1850年代後半からは、イタリア以外での作曲活動も増えていきます。

フランス風のグランド・オペラである『シチリア島の夕べの祈り』や『ドン・カルロス』は、パリ・オペラ座で初演されました。
『運命の力』はロシアで初演され、ヴェルディの代表作である『アイーダ』はエジプトのカイロで初演されています。

晩年の傑作『オテロ』と『ファルスタッフ』

ヴェルディが晩年、作曲活動を休んでいる間に、同い年の作曲家ワーグナーの人気が高まります。
イタリア伝統音楽の人気の陰りに危機感を覚えたヴェルディは、最後に『オテロ』『ファルスタッフ』という2つの傑作を生み出します。

ヴェルディの復活にイタリア中が歓喜し、この2作品は現在でも世界中で上演され続けています。

ヴェルディのエピソード

経営者としての才能

『リゴレット』の成功で、ヴェルディは十分な財産を手にしました。
生活にゆとりの出たヴェルディは農場を購入し経営を始めます。

経営は順調で、多くの人を雇うまでに成長しました。
ヴェルディは経営者としての才能もあったのです。

音楽の面においても、著作権の考えを取り入れて、楽譜の販売業やレンタル業でお金を稼ぎました。
この経営者の能力は、宿屋や雑貨屋などを経営していた父親譲りのものかもしれません。

1850年代後半頃から、ヴェルディの作曲ペースは次第に落ちていきます。
年を重ねたことも理由の一つかもしれませんが、最も大きな理由の一つとしては「お金の心配をする必要がなくなった」ことが挙げられるでしょう。

政治家としての活動

ヴェルディは政治家を志望していませんでしたが、当時の有名人です。
地元ブッセートの代表を打診され、ヴェルディは仕方なくそれを引き受けます。

さらに国会議員にも立候補すると、見事当選してしまいます。
ヴェルディは国会議員を4年間務めましたが、目立った政治活動は行われませんでした。

スカラ座との特別な関係

ヴェルディが作曲した初期のオペラ作品の多くは、スカラ座で初演されています。
しかし、『1日だけの王様』が1日だけで打ち切りになったのを恨んでか、やがてヴェルディの作品はスカラ座で初演されなくなります。

スカラ座がヴェルディ作品を上演するには、ヴェルディの許可が必要だったそうです。

しかし晩年はお互いの関係が修復され、『ドン・カルロ』『オテロ』『ファルスタッフ』はスカラ座で初演されています。

最後のオペラは喜劇作品

喜劇『1日だけの王様』が大失敗に終わってから、ヴェルディは喜劇作品を一切かきませんでした。
ヴェルディのオペラのほとんが悲劇作品です。
そんなヴェルディが最後に手掛けたオペラが喜劇『ファルスタッフ』です。
彼が79歳の時の作品です。

台本作家のボーイトは「悲劇は辛いけど、コメディは人を元気にする!」「全てをひっくり返す笑いで、キャリアを輝かしく締めくくりましょう!」と提案したそうです。
ほとんどが悲劇的なオペラであるヴェルディ作品の中で、『ファルスタッフ』は異色の輝きを放っています。

音楽家のための老人ホームの建設

晩年、ヴェルディは「音楽家のための憩いの家」と呼ばれる老人ホームを建設しました。
建設の目的は「高齢者の音楽家を救うこと」でした。

高齢になると有名な音楽家でも生活に苦労することが多かった実情を、ヴェルディは見てきました。
そこで音楽家の老後のために施設を建てた、というわけです。

この老人ホームの費用はヴェルディの死後も、彼の著作権収入でまかなわれました。
その後は、賛同する音楽家からの寄付で経営され、現在も存続している施設です。

入居するには音楽関係者であることが絶対条件で、年金の8割を払えば誰でも住むことができます。
現在は音大生などの若い音楽家も入居でき、ヴェルディの音楽の精神が受け継がれています。

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