ジャコモ・プッチーニ

生年月日:1858年12月22日
没年月日:1924年11月29日(65歳)
職業:作曲家

家業の宗教音楽家からオペラ作曲家に転身。
ヴェルディの後継者として、数々のオペラの名作を生み出す。
私生活では恋多き男性で、多くの愛人と関係を持った。

プッチーニは、19世紀後半から20世紀前半を生きたイタリアオペラを代表する作曲家です。
賛否はあるものの、音楽史上はヴェルディの後継者としてしばしば書かれています。

プッチーニのオペラは、感情移入しやすいシンプルな物語が多く、思わず歌いたくなるようなメロディーが多いのが特徴です。
彼の代表作としては『ボエーム』『トスカ』『蝶々夫人』『トゥーランドット』などが挙げられます。

プッチーニの生涯に触れて、ぜひ彼の作品をもっと好きになってください。

プッチーニの生涯

音楽一家のサラブレッド

ジャコモ・プッチーニは、1858年にイタリアのトスカーナ地方にあるルッカで生まれました。

プッチーニの家系は、代々音楽家の家系で、父も祖父も、曽祖父も音楽家でした。
ただ音楽で名声を得た人物はおらず、ジャコモ・プッチーニは「プッチーニ家で初めて有名になった音楽家」です。
家業は宗教音楽家で、父はオルガニスト兼作曲家でした。

アイーダを観て、オペラ作曲家を志す

プッチーニは父親を5歳の頃に亡くしたため、叔父から教育を受け、10代の頃は教会のオルガニストとして働いていました。
10代の半ばからは作曲も始めました。

プッチーニは宗教音楽家としての道を歩き始めたかのように見えましたが、18歳の頃に転機が訪れます。
プッチーニはヴェルディの『アイーダ』を観劇して、オペラ作曲家になることを決めたそうです。

25歳で1作目のオペラを作曲

プッチーニは21歳の頃から3年間(1880年から1883年まで)ミラノ音楽院に在籍します。
同僚にはオペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』の作曲家として有名なマスカーニもいました。

プッチーニは在籍中に、初めてオペラ『妖精ヴィッリ』を作曲します。
これはコンクールに応募するものでしたが、残念ながら落選してしまいます。

しかし後に作曲家ボーイトから作品を称賛され、『妖精ヴィッリ』は地元の劇場で初演されます。
『妖精ヴィッリ』の初演は大成功で、1ヶ月後にはスカラ座でも上演されました。

2人の台本作家との出会い

2作目のオペラ『エドガール』の初演は失敗しましたが、3作目のオペラ『マノン・レスコー』は大成功を収めます。
このオペラは、プッチーニ自身が題材を選んだ最初の作品でもあります。

当時『マノン・レスコー』のオペラ化には、反対の声が上がりました。
それは、すでに同じ原作によるマスネの『マノン』がヒットしていたからでした。
しかしプッチーニは意見を譲らず作曲し、結果として見事初めての彼の大ヒット作となりました。

『マノン・レスコー』の台本は、ルイージ・イッリカらが担当しました。
その後、イッリカとジュゼッペ・ジャコーザがリコルディの紹介で出会い、多くの傑作オペラが生まれます。
このコンビは、この後連続して『ボエーム』『トスカ』『蝶々夫人』の台本も書きました。

プッチーニと台本作家の2人を合わせた3人は、「黄金トリオ」とも呼ばれます。

性格が真逆の2人の台本作家

イッリカは気性の荒い人物で、若い頃に国外を放浪したり、戦争に参加したりした経験もある人物でした。

一方ジャコーザはとても温厚な人物で、「ブッダ」と呼ばれていたそうです。
ジャコーザのおかげで、プッチーニとイッリカは良好な関係を保てていたとも言われています。

台本は、イッリカが筋の大枠を書き、ジャコーザが美しい歌詞に仕上げて作られました。

「黄金トリオ」の作品

「黄金トリオ」で作り上げた3つのオペラ作品を紹介します。

『ボエーム』

パリにある、貧しい芸術家たちが暮らす屋根裏部屋が舞台のオペラです。
この頃からプッチーニは、オペラ作曲家として、国外にも名が知れ渡り始めます。

『トスカ』

プッチーニはある舞台を観劇します。
それは当時の名女優ベルナールが主演した舞台でした。

プッチーニはすぐにオペラ化することを希望したそうです。

ちなみに『トスカ』初演の6年前に、ヴェルディに同じテーマの台本が渡っていました。
もしヴェルディが『トスカ』を書いていたら、どのような音楽に仕上がったのでしょう。

『蝶々夫人』

プッチーニはイギリスで戯曲『蝶々夫人』を観劇しました。
英語の舞台であったため、詳しい内容はわからなかったそうですが、プッチーニは舞台に感動しオペラ化を決めたそうです。

作曲の裏には、当時イタリアに在住していた外交官大山綱介の妻である久子の存在がありました。
久子は日本の音楽や文化についての資料を集め、『蝶々夫人』の作曲に協力しました。

初演は稀に見る大失敗に終わりましたが、現在では世界中で上演され続けています。
日本の長崎を舞台にしたオペラで、和の音楽が度々流れることもあり、日本人にとても人気の高い作品です。

10年間で度々の悲劇

40代半ばから50代前半にかけて、プッチーニに多くの災難がかかります。

44歳の頃、自動車事故で骨折し、身動きも取れないほどの重症を負います。
『蝶々夫人』を作曲している時期でした。

48歳頃に、台本作家コンビの一人ジャコーザがこの世を去ります。
ジャコーザの死後、プッチーニが、気性の荒いもう一人の台本作家イッリカと仕事をすることはありませんでした。

また51歳の頃、プッチーニは「女中と浮気をしている」と、妻エルヴィーラに疑われます。
それが原因で女中が自殺してしまい、妻は起訴されてしまいます。

メトロポリタン歌劇場で初演された『西部の娘』

浮気騒動のドタバタの翌年、プッチーニは『西部の娘』を発表します。
初演はメトロポリタン歌劇場で行われました。
同歌劇場の首席指揮者であったトスカニーニが指揮を振り、主役は名テノール・カルーソーが務めました。

この作品はゴールドラッシュの時代のカリフォルニアが舞台で、プレミアがついたチケットは30倍もの値段で取引されたと言われています。

『三部作』の発表

その後1917年に『つばめ』を発表し、その翌年には『三部作』(『外套』『修道女アンジェリカ』『ジャンニ・スキッキ』)がメトロポリタン歌劇場で初演されます。

『三部作』の初演は、『ジャンニ・スキッキ』のみが好評でした。

『ジャンニ・スキッキ』は、プッチーニの唯一の喜劇作品で、彼が完成させた最後のオペラになります。

未完のオペラ『トゥーランドット』

1923年、ヘビースモーカーで有名だったプッチーニは喉頭癌であることが発覚します。
病の深刻さはプッチーニと妻エルヴィーラには知らされず、息子だけが把握していました。

そして、その翌年にはプッチーニは亡くなってしまいます。
その時に書いていたオペラが『トゥーランドット』です。

『トゥーランドット』を完成させる前にプッチーニは亡くなりましたが、初演の日程はすでに決まっていました。
急遽イタリアの作曲家アルファーノが残りの部分を完成させ、予定より1年遅れて『トゥーランドット』は初演されました。

初演はスカラ座で行われ、イタリア中が注目する公演として盛り上がりました。

プッチーニの作品性と人物像

口ずさみやすい旋律

プッチーニの作品の特徴は、イタリアオペラの伝統を継承しながらも、ポップス音楽のように親しみやすいメロディーです。
オペラに馴染みのない聴き手にも、スーッと音楽が入ってきます。

『Quandome’nvò(私が街をあるけば)』『Elucevanlestelle(星は光りぬ)』『Unbeldì,vedremo(ある晴れた日に)』『Nessundorma(誰も寝てはならぬ)』をはじめとして、現在でも多くの有名アリアが歌い継がれています。

「大衆向け」ゆえの反発

プッチーニの音楽は、当時の人たちにとって「かなり聴きやすい音楽」でした。

またプッチーニのオペラは、物語もシンプルで、主人公が悲劇的に終わるものがほとんどでした。
観客は主人公に共感し、感動が込み上げて目がウルッとします。

この「大衆向け」であるがために、プッチーニの作品は評論家だけでなく音楽家からも評価が分かれます。

イタリアを代表する指揮者であるアバドムーティは、プッチーニの作品を好みませんでした。
プッチーニは「ヴェルディの後継者」とも呼ばれますが、ヴェルディのようにイタリア全土から喝采を浴びたわけではありませんでした。
また当時の作曲家ドビュッシーは、プッチーニの人気を疎ましく思っていたそうです。

一方で歴史上最も有名な指揮者カラヤンはプッチーニ作品をしばしば演奏しましたし、フランスの名作曲家ラヴェルもプッチーニに好意的だったそうです。

台本にこだわったプッチーニ

プッチーニはオペラを作曲するにあたり、台本にこだわりました。
台本となるテーマを拒否することも、しばしば起こりました。

プッチーニは台本作成に深く関わり、何度も修正を依頼しました。
そのため、台本作家とトラブルになることも珍しくありませんでした。
出版社のリコルディは、何度もプッチーニと台本作家の仲裁を行ったそうです。

国際色豊かな舞台

台本にこだわったプッチーニだけあり、物語の舞台は国際色豊かです。

ベルギー(エドガール)や日本(蝶々夫人)、アメリカ(西部の娘)、中国(トゥーランドット)などを舞台にしたオペラが書かれています。
その他に定番のイタリア(トスカ、修道女アンジェリカ、ジャンニ・スキッキ)やフランス(マノン・レスコー、ボエーム、外套)も舞台として描かれています。

プッチーニが愛した土地「トッレ・デル・ラーゴ」

イタリアのトスカーナ州に、プッチーニが愛した土地「トッレ・デル・ラーゴ」があります。

30代前半の『マノン・レスコー』を書いた頃から、プッチーニはここで夏を過ごすようになります。
そして40代前半でこの土地に家を建て、約20年間をここで過ごします。

現在この町では毎年「プッチーニフェスティバル」が開催されており、約4万人もの音楽ファンがこのために集まります。

プッチーニと不倫

プッチーニは恋多き人物で、いくつもの不倫をしました。

プッチーニはエルヴィーラと結婚しますが、出会った当初エルヴィーラは既婚者でした。

さらに結婚後も、プッチーニは不倫を続けます。
当時の有名ソプラノ歌手たちや、作曲家の娘、貴族の夫人など、多くの人と不倫関係を持ちました。

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