グスタフ・マーラー(Gustav Mahler/1860年~1911年)の「交響曲第5番」は、1902年に完成された彼にとって5番目の交響曲です。
マーラーの交響曲の中でも特に人気の高い作品でもあります。
彼の交響曲の中では聴きやすく馴染みやすいのも人気の理由の一つかもしれません。

この頃のマーラーは仕事の激務から身体を酷使し続けており、さらにはウィーンの聴衆や評論家との関係が悪化しウィーン・フィルの指揮者を辞任しています。(持病の痔も再発し手術している)
一方で、結婚により希望と生きる活力を手にしています。
この二つの対照的な精神状態が「第5番」には反映していると言われています。

マーラーの交響曲は第2番から第4番までが声楽の入ったいわゆる「角笛交響曲」なのに対し、この第5番から第7番までは声楽のない作品が続きます。

ここではマーラー「交響曲第5番」の解説や名盤を紹介したいと思います。

マーラー「交響曲第5番」の演奏


指揮:クラウディオ・アバド(Claudio Abbado/1933年-2014年)
演奏:ルツェルン祝祭管弦楽団(Lucerne Festival Orchestra)
2004年

[00:55]第1楽章:Traeurmarsch. In gemessenem Schritt. Streng. Wie ein Kondukt
葬送行進曲。精確な歩みで、厳粛に、葬列のように
[13:36]第2楽章:Stürmisch bewegt. Mit grösster Vehemenz
嵐のように激しく、より大きな激烈さを持って
[28:20]第3楽章:Scherzo. Kräftig, Nicht zu schnell
スケルツォ。力強く、速すぎずに
[45:17]第4楽章:Adagietto. Sehr langsam.
アダージェット。非常に遅く
[53:49]第5楽章:Rondo-Finale. Allegro giocoso.
ロンド-フィナーレ。快速に、楽しげに

マーラーの円熟期の作品

「交響曲第5番」は、マーラーが円熟期に入った頃の作品です。
この頃のマーラー(42歳)は20歳も年下のアルマと結婚(1902年3月)したばかりで、またさまざまな芸術家と交流が持ち始めた時期でした。
2人とも初婚であったので、まさに幸せな生活を送っていたことでしょう。
二人はまさに「電撃結婚」で、出会って1カ月で婚約しその4か月後には結婚しています。

そしてその年の夏にマイアーニックの山荘でこの「交響曲第5番」は完成されます。
マーラーの知人であり指揮者のメンゲルベルクは、第4楽章「アダージェット」の美しい音楽は、「マーラーがアルマに送った愛の証」だと言っています。

そしてさらには10月には長女マリア・アンナが誕生します。

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前年の1901年にウィーンの評論家などと揉めてウィーン・フィルの指揮者を辞任したマーラーですが、私生活の面では充実した時期だったのです。
ウィーン・フィルの指揮者を辞任した理由の一つには、保守的なウィーンではユダヤ人であるマーラーへの風当たりが強かったことが挙げられます。
※ウィーン国立歌劇場の職はその後も続けています。

名指揮者マーラー

マーラーは作曲家としてももちろんのこと、指揮者としても名声を得ていました。
もともとユダヤ人でユダヤ教であったマーラーはカトリックに改宗するまでして、ウィーン国立歌劇場での職を手にします。
そしてウィーンを中心に多忙な生活を送りました。

歌劇場では、指揮者としてだけでなく出演者の吟味はもちろん、演目の決定までに関わり、今まで赤字出会ったウィーン国立歌劇場を黒字経営にまで持っていきます。
この頃のマーラーはかなり多忙で、年間100回を超える本番をこなしていました。

このように多忙な中で、マーラーは並行して作曲活動をおこなっていったのです。
ただ劇場監督の間はその余裕はなく、作曲活動は主に夏の休暇の期間に限られていました。
「第5番」は、休暇中にオーストリア南部のヴェルター湖畔のマイアーニックの山荘で書き上げられました。
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ちなみにこの時期にマーラーの「亡き子をしのぶ歌」(1901年~1904年)は書かれています。
まさか自分の長女が5歳で命を落とすことになるとは、この頃は想像もつかなかったことでしょう。
この「亡き子をしのぶ歌」の第1曲は、「交響曲第5番」の第1楽章第1主題の終止音型と関係があると言われています。

バーンスタインによるマーラー・ブームの復活

マーラーは1911年に亡くなりましたが、その直後に起こった出来事が第一次世界大戦(1914年~1918年)でした。
この第一次世界大戦により世界は真っ二つに分断されます。
ウィーンを拠点にしたのちに晩年はアメリカで指揮活動を続けたマーラーですが、この大戦の影響からかマーラーの作品も一時はスポットライトを浴びなくなってしまいます。

このマーラーの作品に再びスポットライトを当て、マーラー・ブームを復活させたのがバーンスタインでした。

レナード・バーンスタイン

レナード・バーンスタイン

アメリカを代表する指揮者であったバーンスタインが、マーラーの馴染みの深いウィーン・フィルでマーラーを指揮したことで、マーラーの音楽はウィーンに再び降り注いだのです。
またバーンスタインはニューヨーク・フィルの音楽監督に就任し、マーラーの交響曲の録音をしました。
このニューヨーク・フィルはマーラーが晩年の死ぬ直前まで指揮を振っていたオーケストラです。

そしてマーラー・ブームの復活を決定的にしたのが、映画「ヴェニスに死す」(1971年)で交響曲第5番が使用されたことでした。
こうして1970年代後半に本格的に巻き起こるマーラー・ブームに繋がっていくのです。

マーラー「交響曲第5番」の名盤

バーンスタイン&ニューヨーク・フィル

マーラー・ブームの火付け役となったバーンスタインによる、マーラーの交響曲全集です。
ニュヨーク・フィルによる演奏で、マーラーの全集といえば筆頭にあがってくる名盤です。
第8番(千人の交響曲)だけはロンドンフィルが演奏しています。

素晴らしい演奏・録音にもかかわらず、値段もお手頃なのでオススメの1枚です。

「第5番」は1963年の録音で、全体を通して主に1960年代に録音されています。

レナード・バーンスタイン (Leonard Bernstein/1918年8月25日-1990年10月14日)
ユダヤ系アメリカ人の作曲家、指揮者、ピアニスト
1958年:アメリカ生まれの指揮者として初めてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の音楽監督に就任
ニューヨーク・フィルの音楽監督辞任(1969年)後は、特定のポストには就かず、ウィーン・フィル、イスラエル・フィル、バイエルン放送交響楽団、ロンドン交響楽団、フランス国立管弦楽団などに客演

ニューヨーク・フィルハーモニック(New York Philharmonic)
アメリカ、ニューヨークのオーケストラで「アメリカ5大オーケストラ(Big Five)」の一つ

1958年バーンスタインは音楽監督に就任し、低迷していた名門ニューヨークフィルの再興に尽力した。
バーンスタインは多くのコンサートをおこない、雇用を安定させ、レコーディングも多く残した。
その結果、ニューヨーク・フィルに黄金時代が到来した。

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